高原療養所で療養されていた方々

小説や映画に取り上げられ、思いもかけず全国に知られるようになった富士見高原病院は、全国から多くの人々が療養に来るようになりました。当資料館には、開所以来記帳されていた入院台帳が残されております。その中には、多くの知名人の名前があります。その方々の内、著名人をご紹介します。また、当館のみに保存される貴重な資料も展示しております。 
藤澤桓夫 
 

ふじさわ たけお 昭和5年3月28日入所、12月20日全快退所。日本経済新聞社刊『私の履歴書』では、「信州富士見のサナトリアムで、私は20歳代の後半の3年余りを過ごした」と記述がある。平成元年、85歳没。藤澤桓夫は明治37年(1904)に大阪で生まれ、平成元年に85歳で亡くなるまで、大阪を描き続けた大衆作家であり、大大阪と呼ばれた時代に浪速文化を支えた人物です。文藝春秋社長 菊池寛の紹介で、富士見高原サナトリウムに入所し、以降3年間、療養生活を送った。菊池寛は、文芸春秋社の社長室に藤澤を呼び、正木不如丘院長に「入院料を安くしてやって下さい」という依頼状を書いた上、入院中の生活費として新聞小説を書くことをサンケイ新聞の創始者で当時の夕刊大阪新聞社社長だった前田久喜氏に交渉して実現させた。こうして藤澤桓夫二十六歳の最初の新聞小説『街の灯』が高原の病室から生れることになった。同時期に入院していた横溝正史と友人になる。この入院中に、「中央公論」に『燃える石』、「新潮」に『晴れ―或る生活風景―』を執筆した。後に開花する、大阪ものと呼ばれる藤澤桓夫の大衆小説の萌芽がうかがわれる大阪再発見があった。堀辰雄は、藤澤桓夫の紹介で当療養所に来た。  

堀 辰雄 

ほり たつお 昭和期の詩人・小説家 明治36年(1904~1953)東京麹町区平河町(現千代田区)に生まれ。 昭和6年夏に大喀血をし、療養生活に入る。

昭和10年婚約者、矢野綾子の療養のため高原療養所にともに滞在したが、5ヶ月後に綾子は死去。この体験から「風立ちぬ」(昭和13)が生まれた。

 
矢野綾子 
 

やの あやこ (堀辰雄の婚約者) 明治43年(1910~1935)東京都下砧村喜多見成城(現世田谷区に生まれる。昭和10年6月23日、婚約者・堀辰雄に付き添われ、結核治療のため富士見高原療養所に入所。しかし、5ヶ月後の12月6日に死去。25歳だった。「風立ちぬ」は彼女との療養生活を元に描かれた。

竹久夢二 
 

たけひさ ゆめじ 明治17年(1884~1934)岡山県邑久(おく)町に生まれる。画家・詩人。本名茂次郎。慈母と姉妹愛に恵まれたが、父の事業の失敗から故郷を失う。明治34年に上京し、明治38年に早稲田実業学校を中退。同年から雑誌などにコマ絵を寄せ、このときから夢二と名のるようになった。

その後、新聞・雑誌に多くの挿絵を描き、夢見がちで哀愁ただよう瞳(ひとみ)の大きな「夢二式美人」による作風をきずいた。後世「美と愛の殉教者」と呼ばれ、「大正の歌麿」と称えられるが、欧米放浪の途上に病を得る。

昭和9年1月16日富士見高原療養所に入所。治療に専心したが、昭和9年9月1日逝く、数え51歳だった。

 
横溝正史
 

よこみぞ せいし 明治35年(1902~1981) 昭和期の小説家。神戸市に生まれる。神戸で育った正史は、外国船員がもちこんだ推理小説やミステリー雑誌によって、推理小説への興味を高めていった。大阪薬学専門学校に進学したころから創作をはじめる。医療知識による過信もあって昭和8年5月喀血し、文芸仲間だった富士見高原療養所の院長・正木不如丘に一渇され結核であることを自覚、昭和8年8月11日に富士見高原療養所に入所。32歳だった。

昭和8年10月26日に退所する。翌年、院長の自宅がある諏訪湖畔に住まいを移し、療養生活をしつつ文学的構想をめぐらし、5年ほど暮らす。戦後、昭和21年「本陣殺人事件」で名探偵金田一耕助を登場させ、以後発表された作品は、岡山地方から着想をえた本格派の怪奇推理小説で、しかも欧米の影響が強い名探偵ものなど多数を執筆し、読者から熱狂的な支持をえた。  

曽宮 一念 
そみや いちねん 明治26年(1893)画家。東京・日本橋生まれ。昭和2年6月13日に入所。 昭和2年7月2日退所 35歳。昭和3年5月26日に入所。昭和3年6月4日退所 36歳。昭和4年5月3日に入所。 昭和4年6月6日退所 37歳。と、何度も入退院をくりかえした。入院中に書いた水墨画が資料館に残されている。雲を描く画家として支持された。平成6年(1994)12月21日101歳、富士宮市で没。
呉清源 
 

ごせいげん 大正3年5月19日(1914~2014))、中国福建省で呉毅と舒文の三男として生まれる。本名、呉泉。清源は字名。昭和2年、名実とも北京の棋士の第一人者となる。昭和3年、来日。以来、さまざまな対局に連勝し、日本棋院より正式に三段を認められる。昭和8年、読売新聞社主催の日本囲碁選手権戦に木谷、橋本に勝って優勝する。昭和11年、日本に帰化し、日本名を呉泉(ご いずみ)と名乗る。昭和17年結婚。25歳、昭和12年6月27日、富士見高原療養所に入所。昭和13年9月24日全快し退所。以来、数々の名勝負を残し、戦後日本囲碁界を牽引した。

昭和59年現役棋士を正式に引退。昭和62年(1987)勳三等旭日中綬章受章。2007年11月・映画「呉清源―極みの棋譜」公開され、好評を博した。

 
薩摩千代子 
 

さつま ちよこ (薩摩治郎八・夫人)明治34年(1901~1976)生まれ。昭和12年2月11日 富士見高原療養所入院 昭和13年7月6日退院。昭和24年東京で死亡。

夫の薩摩治郎八(さつまじろはち)は、フランス・パリの社交界でバロン・サツマ(薩摩男爵)とよばれ、さまざまなパトロン活動で知られた富豪。昭和4年パリ郊外の国際大学都市に、現在の日本円で約10億円をかけた日本館を建設。この功績でフランス政府からレジオン・ドヌール勲章がおくられた。パトロンとして消費した金額は現在の換算で200億円とも600億円ともいわれ、薩摩家の財産をつかいはたした。

昭和41年、昭和44年にはフランス政府の招きでフランスをおとずれている。昭和41年、日仏文化交流の貢献により、勲三等旭日中綬章を受章。著書に「巴里(パリ)・女・戦争」、「せ・し・ぼん わが半生の夢」(1955)などがあり、後に昭和期の随筆家としても知られた。

山口耀久 

やまぐち あきひさ 本名・山口一(はじめ)。

大正15年(1926~)、東京生まれ。山岳エッセイスト・アルピニスト。 昭和19年に獨標登高会を設立し、八ヶ岳、後立山不帰後・峰東壁、甲斐駒・摩利支天中央壁、利尻岳西壁などに登山家、ロッククライマーとして開拓の足跡を残す。八ヶ岳登山の先駆者として、指導的役割を果たしてきた。

昭和25年3月20日に富士見高原療養所に入所し、翌26年11月29日、全治退院。症状の落ち着いたその年の12月に初めて尾崎喜八の住む分水荘を患者ら有志とともに訪ねて交流が始まる。フランス文学を核にその交流の輪は、病院内の者たちだけに留まらず次第に地域に広がっていった。退院後、編集者を経て、串田孫一らが執筆した山の文芸誌「アルプ」の編集委員を300号の終刊まで務めた。著書に「北八ッ彷徨」(創文社刊)「烟霞淡泊」「八ヶ岳挽歌」「頂への道」など、訳書にギド・マニョ―ヌ「ドリュの西壁」がある。なお、「定本・北八ッ彷徨」は平凡社より再刊され好評である。

伊藤 礼 
  いとう れい 昭和8年(1933~)東京生まれ。父親は、昭和期の小説家・評論家である伊藤整(せい)。昭和30年7月8日、23歳のとき富士見高原療養所入院。3年後退院した。一橋大学経済学部卒。元日本大学教授。著書に「伊藤整氏奮闘の生涯」「間違い続き」「こぐこぐ自転車」(平凡社刊)など。最近は、NHKテレビなどに、趣味の自転車旅行の話で登場している。 
岸田衿子 
 

きしだ えりこ 童話作家・詩人 昭4年(1929~)、東京に生まれる。父は岸田國士(作家)、妹は岸田今日子(女優)。

東京芸術大学油美術部を卒業して画家を志望したが、胸部疾患の療養中、詩や散文を発表する。昭和31年8月3日、富士見高原療養所へ入院。同32年10月14日、軽快退院と記録有り。昭和37年、同級生だった中谷千代子の絵で『かばくん』(福音館書店刊)を発表し、ヨーロッパ各地でも高い評価を受ける。詩集、童話や詩の絵本、エッセイ、翻訳、テレビアニメ主題歌「アルプスの少女ハイジ」の作詞など。2011年3月 83歳 逝去。

 
★掲載した写真は、当時の関係者及び制作会社より寄贈を受けた当院所蔵の写真で構成しております