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初代院長 正木俊二 について

正木不如丘 まさき ふじょきゅう (本名・俊二)
1887年(明治20)2月26日長野市生まれ。父直太郎、母ゆきの二男(兄弟九人)に生れる。父は幼時、上田藩主に仕え、長じて東京師範学校中等科(後の高等師範)を卒業し、長野県その他の普通教育の進展に貢献、また支那安慶の高等師範学堂に招聘された。

長野県師範学校附属小学校6年生のとき、教育実習生として派遣されてきた塚原俊彦(のちの島木赤彦)と、運命的な出会いをし、俳句に傾倒する。

1901年(明治34)東京・独逸協会中学校入学。二年生の頃より文学に傾倒し、ホトトギスの同人たちと交流し、荻原井泉水に師事して俳句を学ぶ。
1906年(明治39)医師を目指し、第一高等学校を受験するも不合格。
1907年(明治40)9月、合格。
一高俳句会の幹事として創作に熱中する。

1909年(明治42)東京帝国大学医学部に入学。
1914年(大正3)銀時計を得て東京帝国大学医学部卒業。
母校・青山胤道内科教室の研究助手となる。
1915年(大正4)信州人の豊子と結婚。
1916年(大正5)福島市福島共立病院副研究所へ留学。
1922年(大正11)3月慶應義塾医学部内科学教室専任教師就任。のちに助教授。
この頃、処女小説「診療簿余白」を上梓。この短編は、信濃毎日新聞の懸賞小説に応募し入選。さらに朝日新聞に連載される。以後、小説、戯曲、随筆、伝記、医学書と広範囲の執筆活動を開始する。

1926年(大正15)12月、株式会社富士見高原療養所院長就任。
経営不振の病院を維持するため、余技としていた文学で小説を書き、原稿料を病院経営の資金としていた。
1927年(昭和元年)東京帝国大学医学博士の学位取得。

1928年(昭和3)6月、株式会社富士見高原療養所を解散し、7月に富士見高原日光療養所の個人経営に移す。

1936年(昭和11)財団法人への移管に伴い、富士見高原療養所理事及び管理者所長に就任。

1946年(昭和21)59歳、林勝、吉江俊夫両博士(共に娘婿)に病院経営を任せて医師を引退。文学活等に専念しつつ、慶應義塾医学部非常勤講師、長野県教育委員会委員などを務める。

1962年(昭和37)7月30日没。





正木不如丘◆主な著作

『最後の犠牲者』
『蜥蜴の尾』
『三十前』
『鼓動を聴く』
『生死無限』
『性を覗く』
『髑髏の思出』
『三太郎』
『木賊の秋』
『法医学教室』
『診療簿余白』
『第二診療簿余白』
『昭和一〇年療養三百六十五日』
など、著書多数。